「ま」
薬局/長田由紀
小さな口からこぼれた「ま」の音。それだけで世界がふわりとひらいた気がしました。それは、我が子が発した、はじめてのことば。
「おはよう」「ごはんだよ」「おやすみ」何度も、何度も、話しかけました。返事がないのを知っていて、それでも毎日、言葉を贈り続けた日々。まるで小さな手紙を、瓶に入れて海に流すように、届くかどうかわからないけれどきっと受け取ってくれると、信じていました。
そしてある日、ぽつんとこぼれた一音。「ま」という声は偶然だったのかもしれない。意味があったのかも分からないけれど、胸の奥が温かくなって涙がこぼれました。たったひとつの音に、これまでの日々がそっと重なって見えました。それは「聞いてくれていたんだ」と思わせてくれる、小さな返事でした。
ことばって、不思議です。うまく伝わらなくても、意味が通じなくても、それでも「伝えよう」とする気持ちには、何かがちゃんと宿っています。
そんな経験を通して、ふと思います。たとえば、気持ちを言葉にすることが難しい方や、伝えることに時間がかかる方との対話も、似たようなところがあるのかもしれません。
すぐに返事が返ってこなかったり、言葉が途切れがちだったり、ときには沈黙が続くこともある。けれど、その静けさの中にも、「聞いてほしい」「つながりたい」という思いが静かに息づいていることがあります。
ことばが通じにくいとき、沈黙が長く続くとき、あるいはうまく言葉にならないとき。私たちはその「奥にあるもの」に、どう耳を傾ければいいのでしょうか?
伝えることばかりに目を向けるのではなく、伝わらない時間ごと、まるごと受け取る。そんな姿勢が、会話のはじまりになるのかもしれません。
沈黙にも感情があり、言葉にならない想いがあります。だからこそ私たちは「聞く」という行為を、ただの受け取りではなく「寄り添うこと」として捉えていくことが大切だと思います。
赤ちゃんの「ま」の音が、世界とつながる最初の扉だったように、誰かの沈黙やたどたどしい声もまた、心が開かれる瞬間かもしれません。
もし皆さんの中に、心に残っている「ことば」や「ことばにならなかった何か」があれば、ぜひ聞かせてください。それがまた、誰かの声にそっと寄り添う力になるかもしれません。

