プラタナスの風(ブログ)

2階病棟/石田知彦

 今年の春お遍路に行ってきました。歩き通してテント泊をしながら50日程でと計画しましたが、想定以上に思い通りにはいきませんでした。

 何を着て何を持って行くか、これは最後まで決めきれず、歩きながら使わないものを送り返していました。最後に送り返したのは、観音寺市の郵便局からパンツ1枚と靴下を1組でした。ここまで無駄をそぎ落とし軽くしているんだと満足していました。

 毎日30km以上歩き、荷物は体重込みで92kg前後でしたが、南国市で足が痛くて歩けなくなってしまいました。お遍路あるあるの脛骨疲労性骨膜炎のようでした。帰宅し1週間程休み、大切だと聞いたストレッチをしながら歩いてみると、時速2kmなら歩き続けることができ、お遍路が続けられる!と、とてもうれしかったです。歩行距離は1日30kmまで、荷物は体重込みで90kgまで、次々と追い越されてもペースは上げない。「自分のできる範囲を守り、周りの人は関係ない」と肝に銘じ歩き続けることができました。荷物を軽くする為テント泊の道具は全て下ろしたので、宿から宿の旅になりました。毎日洗濯し湯船に浸かり天国気分で疲れを癒せましたが、大きな問題がありました。外国人遍路(インバウンド遍路?)の増加や遍路宿の減少(高齢化?)の為、自由気ままな旅ができないだけでなく、思うようには宿が取れません。宿が取れない場合には、決めた所まで歩き、そこから公共交通機関で宿に向かい、宿泊後公共交通機関で昨日歩き終えた所までUターンしそこから歩き始め、拘りの歩き遍路の体は保ちました。

 お遍路中に知った事の一つに丁石があります。遍路道横にあるお地蔵さんや案内石に「竹林寺十丁」等と書いています。一丁は109mだそうです「竹林寺まで1km90m」と案内してくれてます。宿毛市から愛媛県に入る山の中でやっと、減っていく丁の前の数は距離を示してるのか?と気づきました。以降方向や距離を案内してくれる丁石はとても有難かったです。

 自宅で休んだ期間を除き、1番霊山寺から88番大窪寺まで51日で結願、大窪寺から霊山寺まで2日計53日で歩いて四国を一周でき、経験したことのない達成感が沸々と湧いてきました。

 車で移動、ツアーに参加、十年かけての区切り打ち、順番に回らない、お遍路は色んなスタイルを寛容に受け入れています。四国で暮らす私たちの身近にあるお遍路、どんなスタイルでも結願するときっと感動の達成感です。お勧めします 是非。


相談支援室/佐野友衣

 “逝ったものが私たちの胸にのしかかるのは、いなくなったためというより、お互いに言わなかったことがあるためなのだ”――この思いから、人生も残り少ないと悟った老女のオルガが、遠く離れた孫娘への置手紙のつもりで日記を書く。スザンナ・タマーロ著『心のおもむくままに』という小説は、最初から最後まで「孫娘にあてた手紙風の日記」であり、主人公であるオルガの純粋な語りが印象的な作品です。

 私がこの本と出会ったのは学生の頃、様々なことに耐えきれず毎晩泣いていた時期に、母から渡されたのが始まりでした。最初の数ページを読み、その後本棚から動くことのなかったこの本を再び手に取ったのは最近のこと。母の本棚に置かれていたこの本にたくさんの線が引かれていることを知り、自分の部屋に置いてある新品同様の本に申し訳なさを感じたのが再読のきっかけでした。感想は「死ぬまでに読んでおいて良かった」に尽きますが、何度も何度も読み返すほど心に残っています。

 小説に度々出てくる孫娘との追憶を読むと、記憶の片隅にある母方の祖母との思い出が引き出されます。幼い私に、折り紙や刺繍の世界を教えてくれたのは祖母でした。朗らかに笑いながら一緒に折り紙をしてくれたのを覚えています。随分泣き虫で、「別れ」という出来事に一層弱い私は、祖母が福岡に帰るたびに泣きじゃくり、縋りつき、結局「バイバイ」すら言えずに号泣して見送るという情けない姿ばかり見せていた気がします。

 そんな祖母とは一年に何度か電話する程度で、数年は会えていません。最近、祖母は忘れることが多くなりました。カードの暗証番号も、支払いも、分からなくなることが増えました。これからきっと、受け入れなければならない現実と向き合う時が来るのだろうなと感じます。『心のおもむくままに』を読み終えた今、祖母と私には「お互いに言わなかったこと」がたくさんあるように思います。オルガの語りが心に残ったように、祖母との思い出も深く私の中には残っています。それを伝えるべき時は、もしかしたら、今なのかもしれません。

 本というものは、内容は不変であるのに、読む時期や立場によって違った気づきを与えてくれる不思議な媒体です。私がこの本と出会えたように、皆様にも素敵な作品との出会いがありますように。そして私は、上達した折り紙と刺繍作品を携えて、心のおもむくままに祖母に会いに行こうと思います。


薬局/長田由紀

 小さな口からこぼれた「ま」の音。それだけで世界がふわりとひらいた気がしました。それは、我が子が発した、はじめてのことば。
「おはよう」「ごはんだよ」「おやすみ」何度も、何度も、話しかけました。返事がないのを知っていて、それでも毎日、言葉を贈り続けた日々。まるで小さな手紙を、瓶に入れて海に流すように、届くかどうかわからないけれどきっと受け取ってくれると、信じていました。

 そしてある日、ぽつんとこぼれた一音。「ま」という声は偶然だったのかもしれない。意味があったのかも分からないけれど、胸の奥が温かくなって涙がこぼれました。たったひとつの音に、これまでの日々がそっと重なって見えました。それは「聞いてくれていたんだ」と思わせてくれる、小さな返事でした。

 ことばって、不思議です。うまく伝わらなくても、意味が通じなくても、それでも「伝えよう」とする気持ちには、何かがちゃんと宿っています。
そんな経験を通して、ふと思います。たとえば、気持ちを言葉にすることが難しい方や、伝えることに時間がかかる方との対話も、似たようなところがあるのかもしれません。

 すぐに返事が返ってこなかったり、言葉が途切れがちだったり、ときには沈黙が続くこともある。けれど、その静けさの中にも、「聞いてほしい」「つながりたい」という思いが静かに息づいていることがあります。

 ことばが通じにくいとき、沈黙が長く続くとき、あるいはうまく言葉にならないとき。私たちはその「奥にあるもの」に、どう耳を傾ければいいのでしょうか?
伝えることばかりに目を向けるのではなく、伝わらない時間ごと、まるごと受け取る。そんな姿勢が、会話のはじまりになるのかもしれません。

 沈黙にも感情があり、言葉にならない想いがあります。だからこそ私たちは「聞く」という行為を、ただの受け取りではなく「寄り添うこと」として捉えていくことが大切だと思います。

 赤ちゃんの「ま」の音が、世界とつながる最初の扉だったように、誰かの沈黙やたどたどしい声もまた、心が開かれる瞬間かもしれません。

 もし皆さんの中に、心に残っている「ことば」や「ことばにならなかった何か」があれば、ぜひ聞かせてください。それがまた、誰かの声にそっと寄り添う力になるかもしれません。


4階病棟/西村祥子

 ある日出勤すると突然プラタナスへの執筆依頼がありました。文章を書くことが苦手、これと言った趣味もエピソードもないので関心を持ち続けている内容を呟いてみます。

 ここ数年、全国各地で自然災害に悩まされる世の中になっています。そして、30年以内に南海トラフ地震が発生する確率は80%程度と公表され、実際に起こった時、自分は何ができるのか…と考え続け約10年が経ちました。

 10年前の私は、災害が起きた時に『さあ!今から災害看護へ切り替えて仕事です』と言われても災害看護に関する知識がありません。そこで、何もできないより動ける自分でありたいと思い様々な研修に参加することにしています。

 研修で興味深いのは、被災病院のエピソードや被災時の連絡手段、医療従事者の体験談、トリアージの必要性、2次災害・3次災害などの対応と家族であるペットをどう考えるかです。

 知ってますか? 災害時は援助が来てくれると期待を膨らませますが、四国は本州から離れ海・山・川に囲まれた場所、特に高知県は遠いため支援や救助が最後になるという事を。道路の寸断や連絡手段の遮断、支援物資も届かない状態でどれくらい心身ともに健康でいられるでしょう、不安になりますよね。

 私は研修の学びから災害看護への知識は得ていますが…、私生活ではどうでしょう。十分に非常物品を揃えていなかったり、クローゼットに入れた状態ですぐに取り出せない、ペットの分は? と問題は山積みです。そんな中、やっと昨年は水を準備しました。今年はペットと一緒に災害を乗り切る方法を考えなければならないと思っています。

 皆さんは災害時にどうするか考えていますか? いいアイデアがあれば教えて下さい。

 こんな呟きを最後まで読んでいただきありがとうございます。


総務部/大峯永愛

 冬の晴れ渡る空を見上げると、ふと蘇る思い出があります。
23歳の冬、中国の友人の結婚式にお呼ばれした私は初めて海外を訪れることになりました。中国の瀋陽(しんよう)、親日派の多い大きな都市です。現地ではご実家に滞在させてもらうこととなり、2週間の有休を取っていざ飛び立ちました。

 初の国際線、英語が通じない現地の空港、早くもスラれかける荷物たち。なんとか脱出できた私は友人一家に無事回収され、ご実家へと到着。
着くやいなや「さぁやるよ!」とお母様の声で突然の餃子作りスタート。茹で上がった水餃子は感動するほどぷりぷりもちもちで、豪勢な手料理と高級酒に舌鼓を打ちながら話に花を咲かせた初日の夜でした。

 翌日、祖父母に叔父叔母、いとこはとこ…次々にご親族が現れて『皆でワイワイする』というイベントが発生。夫婦別姓なので『山田さんちの鈴木花子さん』みたいな紹介がややこしく、中国語に明るくない私はもう誰が誰だか状態に。ロボットのように「ニーハオ」と「シェイシェイ」のみで乗り切っていたのですが、どうやらこの間に私は「咪咪(ミーミー)」というあだ名をもらい、「もはや親族」の称号を得て、ボディーガードが付くことになったようでした。なぜ。

 その日から、どこへ行くにも私の周辺四方には常にボディーガードが配置されました。四神です。シフト制のようで、ふと現れては入れ替わるたび「ありがとう…誰?」と不安になりましたが、ずっと青龍だった叔母とは仲良くなれました。
瀋陽は何を食べても美味しくて、屋台の羊肉串(焼き鳥の羊ver.)は毎日買いに行く程どハマり。またデパートでは値切るのが慣例だったため「多少銭(いくらですか)?」を習得して使いまくりましたが、返ってくる答えが毎回わからないので一度も値切れずに終わりました。

 1週間が過ぎたころに『上海で挙式する』ことが判明し(言うの忘れてた!と友人)、驚きとともに私の瀋陽旅は突如終了。えぇ。さよなら瀋陽…。
上海で素敵な結婚式を終えた後は、連日街を散策しました。かの有名な夜景は噂に違わず美しかったし、レストランではどう食べるのか分からないサイズのカニなどと格闘しつつ、海の幸をたっぷり堪能。
最後はご両親の熱烈なハグで見送られ、私の中国VIP旅は幕を閉じました。
人の温かさや街の風景、美味しい匂いを思い出してはまた感動したりくすっと笑ったり、お腹が減ったり。
毎年、思い出に幸せを貰っている私です。


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